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ヒデキ・マツイの野球キャリアは、米国で始まったのと同じ形で終わった。それはニューヨーク・ヤンキースの選手としてだった。

マツイは日曜日、ヤンキースの選手として引退した。彼はチームと1日だけのマイナーリーグ契約を結び、ヤンキー・スタジアムで行われたヤンキース対レイズ戦の前に行われたセレモニーで、引退書類に署名した。

松井秀喜12月に引退を表明したマツイは、野球選手として最後の日にこの手続を経ることで、ヤンキースの一員となった。そのチームは、彼が7年間プレーしたところだった。

「決して忘れないと思います」マツイは試合前、通訳を通して語った。「僕が憧れていて、なりたかったチームの一員として引退できるなんて、これ以上のことはないです」 

ヤンキースは日曜日のセレモニーを、センターのビデオスクリーンに「Thank you Hideki!」の文字を映し出すことから始めた。そしてそこにキャリアのハイライトが映しだされたマツイは、センター付近のウォーニングトラックからホームベースまで車に乗せられ、ファンは彼をスタンディングオベーションで迎えた。

父親と母親、そして弟と並んだマツイは、ホームベース後方に設置された机の前に座り、ヤンキース選手として正式に引退する書類にサインをした。マツイは長年のチームメイトであるデレク・ジーターから額に入ったユニフォームを渡され、その後ヤンキースの選手は、マツイを称えるために集まった。

39歳のマツイはまた、55番のユニフォームと帽子を身につけて始球式をおこなった。ファンはマツイのボブルヘッドを受け取り、観客席に集まった人たちは、マツイの名前を叫んだ。

「ヒデキは、ヤンキースが望む人物そのもので、それは彼の家族と彼の国の名誉になることです」ヤンキースのブライアン・キャッシュマンGMは語った。「ヤンキースの選手として、彼をここに迎えることができたことをとても喜んでいます。この日、ニューヨーク・ヤンキースの一員としてヒデキが引退する機会をもてたことを、私たちはとても誇りに思っています」

ヤンキースは、マツイが日本の読売ジャイアンツで素晴らしいキャリアを過ごした後の2002年に、彼と契約した。彼は日本で豪快なパワーヒッターとして「ゴジラ」のニックネームが与えられていた。マツイは2003〜'09年の7シーズンをヤンキースでプレーして、その間のチームの成功に重要な役目を果たした。

チームメイトは、マツイのプロ精神、クラブハウスでの存在感、そしてラインアップのどこであってもいとわない姿勢を尊敬していた。2006年5月11日に左手首を骨折するまで、マツイは日本から続けて1,768試合連続でプレーしていた。

「彼はここに、ホームランを打つゴジラだという評判でやってきたけど、実際には状況に合わせて打てる選手だった。彼は選手を進めなければならない時にはランナーを進めて、大きなヒットを打った時は、ランナーを返した。そして毎日プレーすることを望んだ。いちばん大きなことは、彼が決して言い訳をしなかったことだ。プレーをしていても、していなくても、彼からケガの話なんて聞いたことがないんだ。素晴らしいことだよ」ジーターは語った。彼はふざけてマツイのことを、日本語で「おじちゃん」と呼ぶ。「年を追うごとに、彼のことを知るのが楽しかった。彼は常に、僕の最高のチームメイトだし、それはこれからも変わらない」

マツイは、ヤンキースにいた時に打率.292、140本塁打、597打点を記録し、2回オールスターに選ばれた。マツイは、エンジェルスとアスレチックス、そしてレイズでキャリアを続け、キャリアでは打率.282、175本塁打、760打点だった。彼がメジャーで最後にプレーしたのは、2012年7月22日のタンパベイだった。

「ずっとニューヨーク・ヤンキースに入りたいと思っていて、7年間もそうすることができました。僕にとっては毎日が、本当に楽しかった」マツイは語った。

その外野手がヤンキースでもっとも輝いたのは、2009年のワールドシリーズで大活躍したときだった。彼は、ヤンキースがそれまでに戦ったポストシーズンの中でも最高の一人としてMVPに選ばれた。マツイはフィリーズを倒したそのシリーズで、打率.615、3本塁打、8打点を記録した。優勝を決めた第6戦でマツイは、記録となる6打点とホームランを放ち、はじめてにして唯一のワールドシリーズ制覇を成し遂げた。

マツイはまた、新人だった2003年にボストンと対戦したア・リーグ優勝決定シリーズの第7戦で、ヤンキースの勝利につながる重要な役目を果たした。8回にマツイは、ボストンの先発ペドロ・マルチネスから二塁打を放ち、その後同点のホームを踏んだ。それは球界で、もっとも有名な逆転勝ちの一つである。

「2009年のワールドシリーズで勝ったことは、特別な思い出です」マツイは言った。「同じくらい印象的なのは、2003年のア・リーグ優勝決定戦の第7戦。これも特別です」

マツイの引退は、ヤンキー・スタジアムをいっぱいにし、多くのファンがマツイのユニフォームを着て、サインボードを持ってきた。試合の数時間前、ファンはスタジアムの外側に行列していた。マツイはブロンクスにいた時、ヤンキースでもっとも人気がある選手の一人だった。

「55番のユニフォームを着たファンを見たら、懐かしさと嬉しさの両方をたぶん感じると思います」マツイは言った。「それと同時に、彼らがそれを捨てないで、とっておいてくれたことをありがたいと思うでしょう」

参考記事: Hideki Matsui retires as a Yankee By Matt Ehalt | Special to ESPNNewYork.com

アーン・テレムは、スポーツ界でもっとも優秀な代理人の一人であると言われている。彼は、元読売ジャイアンツのスターであるヒデキ・マツイの10年間のメジャーリーグキャリアで代理人を務めた。彼はここに、石川県生まれのマツイに対する特別な思いをつづった。

***

2002年の秋、サンフランシスコの弁護士から私に電話が入った。彼は私に、日本の優れた野球選手であるヒデキ・マツイの代理人になる気はないかと私に尋ねた。

私はマツイがフリーエージェントになることを知っていた。そしてその読売ジャイアンツの強打者が、米国行きを望んでいると聞いたことがあった。もちろん私はその弁護士に、マツイほどの選手ならすでに米国での代理人を雇っているのではないかと尋ねた。

その弁護士は「いや、いないんだ」と言った。彼は私に、マツイにアドバイスをしている日本の弁護士と連絡をとるように勧めた。

アスリートの代理人というのは、所属が未定の選手のために常日頃から走り回っているが、上手くいかないことも多くある。しかしこの件は、私の興味をそそるものだった。そして私は、その日本の弁護士にEメールを送った。

彼は翌日に返事をくれた。それからの数週間、私たちは古来から伝わる真理を持ってやり取りをした。それは礼儀、尊敬、謙虚といったマツイが大切にしているものだった。もし私を雇えば、マツイの考えを尊重し、そして家族同様に接すると私は約束した。

11月の終わりに、マツイが代理人として私を選んでくれたことを、日本のメディアを通して知った。

この仕事を始めてから32年間で初めて、そしてこれまでのところ唯一、私はそれまでに会ったことがないアスリートによって雇われた。

その直後のサンクスギビングデーに、私は彼と初めて話し合うために日本へ飛んだ。関西国際空港の税関を出ると、私は取材陣に囲まれた。そして大阪の印象を聞かれた。

それまでに訪れたことがなかった土地に到着したばかりだった私は、手荷物受取所が印象的だったと答える以外になかった。

初めて対面した日に、私とマツイはとても美味しい食事を共にした。二人とも、寿司が大好きだった。そして彼の目標と未来について話し合った。

彼にはメジャーリーグで生きることについて、分からないことがたくさんあったが、ヤンキースに行きたいという、この点だけは確かだった。一方のヤンキースもまた、彼を欲しがっていた。

7年もの間、マツイはピンストライプで奮闘した。初めての本拠地開幕戦では、グランドスラムを放った。

日本でのキャリアを終えたときに1,250試合連続出場をしていた彼は、ヤンキースの最初の3年間でも試合を休まなかった。

2006年、そのチームで519試合目となったレッドソックス戦のさなか、スライディングキャッチを試みた彼は左手首を骨折した。彼はチームメイト、そしてその後ジョー・トーリ監督に、けがをしたことに対する謝罪の手紙を書いた。

2度オールスターに選ばれたマツイがヤンキースで最も輝いたのは、2009年のワールドシリーズだ。指名打者が使えないナショナル・リーグの球場であるシチズンバンク・パークで行われた1試合で先発出場を外れたにもかかわらず、ゴジラはフィリーズを相手に3本塁打、シリーズタイ記録の8打点をマークした。

フォール・クラッシックにおいて、そのような限られたチャンスの中で、それ以上活躍した打者はかつていなかった。打率.615は、そのシリーズで10打席以上立った選手の中で歴代3位。長打率1.385は、ルー・ゲーリッグについで歴代2位。そして彼は、シリーズMVPに選ばれた。

マツイは昨年の12月に野球を引退した。10年間のメジャーリーグを含む20年間にわたるプロ野球人生で、彼は信念を曲げなかった。2,643安打、507本塁打、打率.293、通算成績は殿堂入りに相応しいものだ。

彼のキャリアにおける野球に対する姿勢は賞賛に値する。彼は大阪で初めて会ったときに話し合った真の価値観を貫き通した。それはポール・オニールとかつての偉大なヤンキース選手トミー・ヘンリッチを合わせたような素晴らしいプロ意識だった。彼は個人のことよりもチームを優先し、チームメイトとファンに対する責任を果たした。彼は外野で必死にフライを追いかけるだけでなく、記者からぶつけられる厳しい質問にも落ち着いて対処した。

アスリートが私たちからの尊敬をあざ笑う昨今だが、マツイの模範的な態度は揺らぐことがなかった。日本国民としての誇りと共に、彼はすべてのアメリカスポーツ界のなかでも、もっとも優れた人間の典型である。

彼は隠れて慈善行為を行なっていた。公にすることなく、多額のお金を寄付していた。2005年に津波がインドネシアを襲ったとき、マツイはユニセフに500,000ドルを寄付した。

2011年に彼の母国が津波に襲われたときも、彼は惜しみなく援助した。

マツイは、神から与えられた類まれな能力を他の人のために使うという、めったにいないスーパースターだった。

なぜこのアスリートが、私がこれまでに代理人を務めてきた他の500人以上のアスリートと違うのだろう?

一つ例を挙げれば、以前にヤンキースと彼の最初の3年契約をまとめたとき、彼は私に基本報酬以上を受け取ってくれないかとたずねた。そしてもしすべてがうまく行けば、次回の契約の時に内容を見直しましょうと言った。

数年後にふたたびフリーエージェントが迫ってきた彼は、仕事の打ち合わせをするためにニューヨークで会えませんかと尋ねてきた。私が驚いたことは、マツイは代理人としての私の努力に感謝を述べるだけでなく、最初に取り決めていたものを超える報酬を払ってくれた。

そんなことをしてもらったのは、私のキャリアで初めてだった。そしてそんなことは、二度と起こらないだろう。

参考記事:Tellem’s take: Matsui a special person BY ARN TELLEM SPECIAL TO THE JAPAN TIMES

信じようが信じまいが、ニューヨーク・ヤンキースの前にも、ヒデキ・マツイには野球人生があった。しかし君たちは、それを知る必要はないかもしれない。

レジー・ジャクソンがそうだった。

ミスター・オクトーバーのユニフォーム姿を考えた時、君はどんな姿を思い浮かべるだろう。ピンストライプではないか?

知っての通り、ジャクソンは21年間メジャーリーグでプレーした。彼は多くの時間をオークランド・アスレチックスで過ごした。彼が最初の10年間所属したチームだ。それに加えて、彼はボルティモア・オリオールズにもいた。そして彼はカリフォルニア(現在はロサンゼルス)・エンゼルスにも5年間いた。これらは興味深いことだ。

ジャクソンはヤンキースで、同じ時間だけ過ごしたのではない。

それでも熱心なファンから、あまりそうでない人たちまでが、“レジー”と言うとヤンキースでの光景を思い浮かべる。 前のヤンキースタジアムで行われた1977年のワールドシリーズで、3人の投手から3本の本塁打を放った。“ザ・ボス”ビリー・マーチンに臆すことがなかった。

彼らはまた、他の光景も思い浮かべる。過激な発言にまつわる、多くのヤンキースでの光景だ。

「ヤンキースの一員として何か大きなことを成し遂げたならば、ヤンキースに来る前やヤンキースの後のことは関係なくなる」 ジャクソンは典型的な、このような人物だ。

グレイグ・ネトルズを考えてみよう。彼はミネソタ・ツインズ、サンディエゴ・パドレス、クリーブランド・インディアンス、アトランタ・ブレーブス、そしてモントリオール・エクスポズで22年半プレーした。

みんなはヤンキースでの半年のことしか、ネトルズを覚えていない。

デービッド・ウェルズは21年間メジャーリーグでプレーしたが、彼のヒーローがかつていたブロンクスでの4年間が一番有名だ。その左腕はヤンキースの本拠地の試合で、ベーブ・ルースの本物の帽子さえ被ったことがある。彼はまたヤンキースで完全試合を達成したが、何の間違いなのか、自叙伝で彼が着ているのは違うユニフォームだ。

ロジャー・クレメンスはどうだろう?

彼はレッドソックスとヤンキース、どちらだろうか?

それは難しい問題だ。

そうクレメンスは、7回のサイ・ヤング賞のうち、最初の3回はレッドソックスにいたときだった。そして彼はトロント・ブルージェイズで2回受賞した。しかし彼はヤンキースでも1回受賞し、300勝目と4,000奪三振目はピンストライプを着ていた。

それよりも重要なのは、クレメンスはヤンキースで3回ワールドシリーズに出場して、うち2回を制覇していることだ。

そしてアレックス・ロドリゲス。彼の印象的なプレーの全ては、シアトル・マリナーズとテキサス・レンジャーズでのものだ。それでも間違いなく彼は19年間のメジャーリーグ生活のうち、僅か9年間のヤンキースでの素晴らしい、そしてまあまあ素晴らしい瞬間を記憶されるだろう。

マツイはどうだ。彼は結実した強打者としての20年のプロキャリアを過ごし、38歳で引退すると今週表明した。

マツイは日本のセントラル・リーグ、読売ジャイアンツで一時代を築いたスターだった。ゴジラの愛称はそこで生まれた。彼はそこで3回、リーグMVPに選ばれた。彼は9年連続でオールスターに出場し、3回本塁打王になり、3回打点王に輝いた。彼はまたジャイアンツを4回日本シリーズに導き、3回日本一になった。

マツイの偉業を考える時、それよりも大きなことがある。みんなが知っておくべきなのは2009年10月の彼は、ルー・ゲーリッグとルースと同じくらい素晴らかったことだ。この2人以外で、ワールドシリーズで3本塁打を放ち、打率が5割を越えたのは彼だけだ。

そのフォール・クラッシックでマツイはMVPに輝いた。そしてそれが、ヤンキースとしての彼のイメージを決定的なものにした。

そうなのだ。マツイがヤンキースでの7年間で、素晴らしい成績(打率.292、140本塁打)を残していても、ヤンキースとして過ごしていない時間を含めても、2009年のワールドシリーズが記憶に残る瞬間だ。 

アーロン・ブーンを見てみよう。

彼は11年間メジャーリーグでプレーし、ヤンキースでは僅か1年間だ。

しかしブーンがボストン・レッドソックスとの2003年アメリカンリーグ・チャンピオンシップ・シリーズ第7戦の11回裏にサヨナラ本塁打を放った時、彼はヤンキース選手として記憶に残ることになった。

言い換えれば、もしC.C.サバシアが殿堂入りすることになっても、クリーブランド・インディアンスの帽子を被っていないだろうということだ。

ブーンと他の選手がヤンキースとしての“瞬間”を持っているように、サバシアもヤンキースとしての“瞬間”を持っているのだ。

まずサバシアがブロンクスに来る前のことを思い出してみよう。彼はインディアンスでの8年間で、3回のオールスターとサイ・ヤング賞を受賞して、とても輝いていた。彼はまた2008年シーズンの途中にクリーブランドからミルウォーキーにトレードされた後、最高の投球を見せてブルワーズが26年間で初めてプレーオフに進出するのを助けた。

そしてヤンキースに来た。このチームで1年目だった2009年、サバシアはヤンキースがワールドチャンピオンに輝くまでに多大な貢献をして、ア・リーグ優勝決定シリーズのMVPに輝いた。そして彼はヤンキースの4年間のうち2年でメジャーリーグ最多勝を記録している。

ヤンキースのサバシアに、これ以上の意味あるなにかが起これば、それはやり過ぎになるだろう。

彼はすでに、永遠のヤンキースなのだ。

これらの人と同じように。

参考記事:Matsui will always be considered a Yankee By Terence Moore


Ichiro rewards fan with souvenir 

ヒデキ・マツイがタンパベイ・レイズとの契約を解除されたというニュースが伝わり、ヤンキースのメンバーはかつてのワールドシリーズMVP選手のキャリアとその貢献についての想いを表明した。

「彼は長い間、ヤンキースでプレーしていたから」イチロー・スズキは通訳を通して言った。「長い間、継続的に良いプレーをしなくてはならなかった。それは選手としてだけではなくてね」

「そんなに長くヤンキースにいたっていうのは、人として、人格的な部分で、良い人間でなければならないって、僕は知っているから。僕が彼を凄いなって思うのは、その一貫した姿勢、で彼がそんなにも長くここにいることができたっていう事実。彼が素晴らしい選手で、素晴らしい人間であるということを、それが物語っている」

38才のマツイは、タンパベイで34試合に出場したが、打率.147、2本塁打、7打点だった。2003年に日本からメジャーリーに来て以来、マツイは10シーズンで175本塁打を打っている。彼はエンジェルス、アスレチックスそしてレイズに移籍する前に、7年間ヤンキースでプレーしていた。2009年にはニューヨークの一員としてワールドシリーズを制覇している。

「素晴らしい選手、素晴らしいプロフェッショナル、素晴らしいチームメイト」ヤンキースのジョー・ジラルディ監督は言った。「ワールドシリーズのMVP。チャンスに強い打者。傑出した選手だ」

2001年にマリナーズに移籍してきたイチローは、エキサイティングなスピードと、優れた打撃技術を見せつけていた。そしてピンストライプを着た松井のデビューは、日本球界がメジャーリーグと同等のパワーヒッターを生み出すことができると証明したとジラルディは言った。

「彼らは完璧な選手だ。そして彼らは違うことができる」ジラルディは言った。「あっちでは、必ずしもスピードの勝負だけではない。彼らには、彼らのパワーヒッターがいる。マツイはその中でも特別だったんだと思う。ある意味で、彼は扉を開いたんだ。どこでもできる。どこであろうがプレーができるっていうね」

ヤンキースでリードオフに入ったイチロー

ヤンキースのユニフォームを着たイチロー・スズキは、3試合目でより馴染みのある打順に入った。彼らが最近獲得したその外野手は、マリナーズとのシリーズ最終戦が行われた水曜日にリードオフを任された。

月曜日のトレードから、ニューヨークでの最初の二試合で、イチローの打順は8番だった。そしてヤンキースのジョー・ジラルディ監督は、チームの西海岸への遠征の最後に、何か違うことがしてみたかったと言った。

「彼はそこが長いから」ジラルディは言った。「カーティス(・グランダーソン)は5番、打点を取る場所に動かす。それを一回やってみて、どうなるのかを見てみようと思う」

ジラルディは、ラインアップのトップのイチローに長期的なことは何も委ねていないが、彼は今、ラインアップにをいじることに対してオープンだ。それは三塁手のアレックス・ロドリゲスの不在が長くなることをヤンキースが知っているからだ。

「どこであろうと、僕は自分の準備をするだけ」イチローは通訳を通して言った。「だけど用意はできている。それは僕が試合でやりたいことだから、僕はその準備ができている」

ロドリゲスは、左手の亀裂骨折で水曜日に15日の故障者リストに入った。そしてヤンキースは3Aスクラントン/ウィルクスバリから、内野手のラミロ・ペーニャを呼んだ。

ヤンキースのレギュラーリードオフのデレク・ジーターは2番になったが、1回の表にヒサシ・イワクマからホームランを打ち、問題ないところを見せた。ジラルディは、火曜日の遅くにイチローとジーターの両方に彼の考えを話したと言った。その監督は、イチローを2番に入れたくないと言った。マーク・タシアラが3番でロビンソン・カノが4番だからだ。

「あまり多くの左打者を並べたくないんだ。だから私はそうした」ジラルディは言った。

水曜日の試合前までのイチローの出塁率は僅か.290で、その外野手はシアトルとニューヨークの合わせて97試合で打率.262、4本塁打、28打点で、ヤンキースでの最初の2試合では、7打数2安打、一本の二塁打で一盗塁だった。

「彼はそこのやり方を知っていて、そこで成功している」ジラルディは言った。「彼はこっちに来てから、スイングが良くなっている。それが続くことを期待している」

参考記事:Nothing but fond memories of Matsui from Yanks By Bryan Hoch / MLB.com | 07/25/12 9:30 PM ET
http://mlb.mlb.com/news/article.jsp?ymd=20120725&content_id=35553954&notebook_id=35553960&vkey=notebook_nyy&c_id=nyy

ヒデキ・マツイは火曜日夜のレイズへの合流を、第2打席にホームランを打つことで盛大にアピールした。

レイズは火曜日に、3Aダーラムからそのベテランスラッガーを呼び寄せ、彼はトロピカーナ・フィールドで行われたホワイトソックス戦に6番打者として出場したが、試合はレイズが7-2で負けた。

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ba-as15_0503628253_part61ヶ月ほど前のヒデキ・マツイには、今年が最後のメジャーリーグシーズンかと思われた。オールスター休暇前の彼の打率は.209だった。

38才のマツイは、21試合で82打数37安打(.451)と異常な活躍を見せている。彼はシーズン最長の15試合連続安打中で、その間4本塁打13打点だ。彼は不調から抜け出し”頼れる男”になった。

「この状態が続けば良いね」ボブ・メルビン監督は言った。「彼が打席にたてば、私たちは彼がヒットを打つと予想する。私だけでは無い。ベンチにいるみんながね」

それは突然、彼のキャリアが継続したのかのように見える。しかしマツイは、いつもそれを意識しないようにしている。

「僕は本当に、来年のことは考えていない」彼は通訳のロジャー・カーロンを通していった。「まだシーズンは2ヶ月残っているから、僕たちはそれをどう戦うかだね」

彼は、アスレティックスに残りたいのだろうか?オークランドは、何回かクリス・カーターのDHを試している。しかし彼は、不確実性が残っている。そしてマツイは、彼の膝が問題なければ、いまだ堅実なレフト選手であることも見せている。

「シーズン後の事は考えていない」彼は言った。「一方で、僕はこのチームとチームメイトを気に入ってる」 

ビリー・ビーンGMは、アスレティックスのフリーエージェントに対する決定は、シーズン後になると言った。しかしマツイについては「数週間前を考えると、信じられない変化だ。それは彼の状態が良ければ、ラインアップに必要だということを示している。なぜなら攻撃力が、かなり回復したからだ」

参考記事:A's Hideki Matsui back to being 'Godzilla' Susan Slusser, Chronicle Staff Writer Monday, August 8, 2011 SFGate
http://www.sfgate.com/cgi-bin/article.cgi?f=/c/a/2011/08/08/SPF91KKUBV.DTL&feed=rss.athletics  

その試合は、久しぶりに松井からホームランが出た試合だった。

松井は7回、バーリーからツーランホームランを打ち、スコアを3-6とした。

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