2010年の春のある日、宮城球場のホーム側クラブハウスにいた田中将大は、手にした雑誌をパラパラとめくった。

当時21歳だった田中は、日本プロ野球の楽天ゴールデンイーグルスで4シーズン目を迎えていた。 
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高校生の頃から国民的スターだった彼は、その前のシーズンで189回2/3を投げて防御率2.33と打者を圧倒していた。田中は期待通り、その国でも優秀な投手の1人となっていた。

しかし日本の人気週刊誌である週刊ベースボールの記事を目にしたことは、田中が世界でも優秀な投手、そして最終的にニューヨーク・ヤンキースの一員となるきっかけを作った。

その週の記事には、日本の12チームにいる素晴らしい投手の何人かが投げる変化球の、詳細な分析が掲載されていた。

アメリカ人のジャーニーマン、ブライアン・ファルケンボーグは、ソフトバンク・ホークスでの1年目を終えたばかりだった。右腕の彼は、そのチームのセットアップマンとして46試合に登板して、防御率1.74を記録していた。 彼のスタイルのスプリット・フィンガード・ファストボールは、スプリッターを投げる投手が多いリーグの中でも目立っており、週刊ベースボールに掲載された詳細な解説とグリップの写真は、興味を引くには十分だった。

それから4年後のファルケンボーグは、そのことについてあまり覚えていない。それはチームを通してアレンジされたもので、そしてコミュニケーションは通訳頼みだった。現在、キャリアで6チーム目となる日本のチームに所属しているファルケンボーグは、挨拶を超えたコミュニケーションを取るには、今でも通訳に頼っており、従ってその記事も読むことができなかた。

しかし田中は、読むことができた。

ファルケンボーグのグリップを勉強した田中は、すぐにそれを真似して見せ、そしてブルペンでわずか1度練習しただけで、試合で投げた。その投球は、すでに彼が投げていたフォークボールと似ていたが、人差し指と中指間に、浅めに握ることが違っていた。

その発見が、2種類のスプリッターを産んだ。田中は、早いカウントでストライクを取るために転がり落ちるようなそれを投げ、2ストライクから彼は、より鋭く落ちるそれを投げる。それはまた、彼に驚異的な成功と世界的な名声をもたらし、そして彼を途方もないお金持ちにさせた。

その後の3シーズンの田中の防御率は、1.87を超えることはなかった。彼は2011年と2013年に日本のサイ・ヤング賞である沢村賞に輝き、特に2013年の彼は、いま本当に多くの球界関係者が世界で一番だと信じているスプリッターを駆使して、24勝0敗、防御率1.27、ゴールデンイーグルスの日本シリーズ制覇の原動力となった。

昨冬の田中は、米国に来た最も新しい日本人スター選手となった。熱心に獲得に動いたヤンキースが、最終的に7年155百万ドルの契約で彼を勝ち取り、それはメジャーリーグ史上、最も大きな日本人選手の契約となった。

そして田中は、日曜日のエンゼルス戦の前までで3勝0敗、 29回1/3で35奪三振を記録していた。

ファルケンボーグがいなければ、違う物語になっていたかもしれないと田中は言うだろう。

「昨年の日本での記録は、多分できなかったと思います」田中は最近、通訳のシンゴ・ホリエを通じて言った。「それにおそらく、ここに来ることさえ、できなかったと思います」

放浪者

ボルチモア・オリオールズは、ワシントン州レッドモンド高校にいたファルケンボーグを1996年のドラフトで2巡目で指名した。1999年、彼はメジャーリーグ・デビューを果たし、オリオールズで2度のリリーフ登板を果たした。

そして放浪のキャリアが始まった。先発投手として4年間オリオールズで過ごした彼は、やはり先発投手として3年間シアトル・マリナーズにいたが、3A止まりだった。2004年の彼はドジャースに加わったが、ブルペンからの6度の登板で14回1/3を投げて、防御率は7.53だった。それは5年間で、初めてのメジャーリーグ期間だった。

その冬、サンディエゴはファルケンボーグと契約し、彼をブルペンに置いた。リリーバーとして継続して成功するためにファルケンボーグは、ファストボールとカーブボールを補う、もう1つの空振りを奪う球を学ぶ必要があると考えた。

その2年前、当時のマリナーズの投手コーチで、現在はレッズの監督を務めるブライアン・プライスは、ファルケンボーグにスプリッターを投げるように提案した。プライスは、ファルケンボーグの6フィート7インチの体格と、上から投げ下ろす腕の角度が、その球種に理想的な投球フォームを作り出していると考えたのだ。しかし当時のファルケンボーグは、その球を習得するのに時間を費やすことで、メジャーリーグで先発投手を務めるチャンスが少なくなることを恐れていた。

しかしオプションが切れて、先発へのこだわりを捨てることがメジャーに残るためのベストな方法だったファルケンボーグは、スプリッターを学ぶ決心をした。

親しい友人でメジャーリーグで長年クローザーを務めているJ.J.プッツが、彼に握り方を教えた。ファルケンボーグは「それをいろいろ試した」が、メジャーリーグのロスター入りを争うという毎年のプレッシャーが、結局のところ、ファルケンボーグがそれを継続して行なうことの足かせとなった。

「ブルペンにいる時のアメリカの一般的なルールでは」ファルケンボーグは最近、日本から電話インタビューに応えた。「3つ目の球種で打たれるなんてことは、許されないんだ」

最終的にそれは、重要ではなかった。ファルケンボーグは、それからの3シーズンでいくつかの球団を渡り歩き、3Aとメジャーを行ったり来たりした。そして2008年シーズン後、彼は履歴書にメジャーリーグ64登板と記載されている30歳のジャーニーマンとなっていた。

彼は、日本へ行く決心をした。

日本の球種

スプリッターは、普通のファストボールと同じ投球フォームで投げるが、そのボールは、人差し指と中指の間でグリップされる。その握りによって、球は落ちるようになる。最高のスプリッターは、その球筋はほとんどにおいてファストボールと同じだが、最後の瞬間にストライクゾーンから突き刺さるように落ちる。

1980年代には、ロジャー・クレメンス、ジャック・モリス、そしてデーブ・スチュワートが、スプリッターを使っていたが、メジャーリーグの球団が、その投球の肘への負担を心配し始めたことで、人気はなくなっていた。

日本は違った。アメリカ人が、チェンジアップやスライダーを選ぶ中で、日本人投手は、高校生からプロ選手まで、カウントによって違う変化をするいくつかのスピードのスプリッターを投げている。

いろいろな意味でスプリッターは、日本の球になった。

メジャーで初めて成功した日本人投手である野茂英雄が、1995年に登場した時のベストピッチはそれだった。そして佐々木主浩(2000年)、長谷川滋利(1997年)もそうだった。今日では、レッドソックスのクローザー上原浩治、レンジャーズのエース、ダルビッシュ有、そしてヤンキースのベテラン黒田博樹も、その伝統を継いでいる。

39歳の黒田がプロになってからスプリッターを学んだのは、球種を増やさなければ成功するチャンスは少ないと悟ったからだったと語った。彼はそれを、テレビで見ることとチームメイトから学び、そしてコーチから指導を受けた。

広島カープでの最初の4年間で防御率が4.40、6.60、6.78そして4.31だった黒田は、NPBでもベストな先発投手としての地位を確立し、33歳だった2008年にアメリカへやってきた。

「ある意味、日本で磨かれた球と言えるでしょうね」黒田は、通訳を通して語った。「でもそれは、こっちよりも日本の方が、スプリッターを投げる投手が多いからだと思います」

クリス・ラルーは、この文化的な違いにすぐに遭遇した。昨年の4月にヤクルトスワローズと契約したラルーは、コーチからスプリッターを投げることができるのかと聞かれた。彼はできなかったが、その返事は無視された。

「彼らは"じゃ、それを勉強して"みたいな感じだった」ラルーは語った。彼は数日前に、3Aスクラントン/ウィルキスバレからヤンキースに昇格した。

日本でデビューしたラルーは、ブルペン投球でスプリッターの投げ方を学んだ。ラルーは、およそ85球を投げて、それは日本では普通のことだが、「ただ疲れただけ」だった。

2度目の先発で腕に違和感を感じた彼は、その結果として腕の角度を下げ始めたが、それはスプリッターの影響を減らすためだった。

彼の日本でのキャリアは、わずかに5先発、防御率は9.00で終わった。

「彼らは僕に、ほんとうにたくさんのお金を払っていたから、僕は"分かった。僕はそれを投げるし、後はどうにでもなれ"って感じだった」ラルーはスワローズと1年55万ドルの契約だった。「みんなが投げているからってだけで、僕はスプリッターを投げ続けたんだ」

同じ様に強制的に同化させられたファルケンボーグは、大きな成功を収めた。ソフトバンクに加わるために日本に到着した彼もまた、何を投げることができるのかと聞かれた。彼はファストボール、カーブボール、そしてスプリッターと答えた。実際に彼は、稀にではあるがスプリッターを投げていた。それは、彼にとってはあまり重要な球ではなかったが、コーチ陣は彼に、それをもっと頻繁に投げることを望んだ。

ソフトバンクのキャッチャー陣は、スプリング・トレーニングの間にそれを頻繁に要求し、そのパターンは、レギュラーシーズンでも続いた。日本で投げることのファルケンボーグの不安は、スプリッターを投げれば投げるほど、快適さに置き換わっていった。

「僕は、カーブボールを見せ球にして、ファストボールとスプリットを投げる投手になれば良いって、その時に分かったんだ」

その組み合わせは、驚くべき結果につながった。2009年にブレイクしたファルケンボーグのその後の4年間の防御率は、1.02、1.42、1.57、そして2.04を記録した。

海外での生活をおくる中で彼は、リーグで最も高給な選手の1人となった。それはメジャーリーグよりも、リリーバーの価値を評価している日本の球団幹部のお陰である。

この冬、楽天ゴールデンイーグルスは、田中の獲得でヤンキースが支払った20百万ドルのポスティング・フィーのうちの1.95百万ドルを使って、ファルケンボーグと契約した。彼は現在、チームのクローザーである。

アメリカへ

ファルケンボーグは、2009年のオールスターゲームで田中と会った時のことを思い出していた。リーグ内の壁が、彼らが遭遇して挨拶を交わすチャンスを制限したが、ファルケンボーグは、シャイで物静かな田中を覚えている。

そのアメリカ人の目撃者が見た田中のスターダムは、パシフィックリーグで戦う中で毎年、大きくなっていった。そして田中の人気は、爆発した。彼は広告に登場するようになり、歌手からテレビスターになった女性と結婚した。彼の先発は、一大イベントになった。

しかし彼は、アメリカ人への神秘性は残していた。評論家の意見の大勢は、田中はエースではなくても、メジャーでローテーション上位の先発投手になるだろうというものだった。

それでも田中の争奪戦は白熱し、東京からのハルという名前の茶色いプードルを含めた6人の195,000ドルのチャーターフライトは、注目を集めた。田中を紹介する盛大な記者会見がヤンキースタジアムで行われたのは、スプリング・トレーニングに投手と捕手が集合する数日前のことだった。

過剰な期待を抑えるためにヤンキースのブライアン・キャッシュマンGMは、155百万ドルの値段にも関わらず、ヤンキースは田中が徐々に3番手の先発になれば満足だとラジオで明かした。

しかしファルケンボーグは、より大きな期待をしている。田中の能力と精神力に夢中になっている彼は、こまれでに見た日本人投手の誰よりも、日本でアメリカスタイルの投球をしていたと語った。それは彼が、打者にアタックするという意味である。

「彼は、とても素晴らしい投手になる、最高のチャンスを持っているんだ。彼が正真正銘のNo.1先発投手になれるのかって? 分からない。そうなれるのは、その中でも特別な能力を持ち揃えた一握りの選手だけだから」

「彼がローテーショントップの能力を持っていて、プレーオフを争うチームで最前線に立つ選手だと思うかって? イエスだ」

これまでの田中は、スカウトの予想を超えている。彼は最初の4回の先発のいずれでも、7回以上を投げた。彼の防御率は、2.15の低さを誇り、三振四球比は、35-2である。そして彼は、重大なミスを帳消しにする能力を見せている。

まだシーズンは始まったばかりだが、イバン・ノバがトミー・ジョン手術によってシーズン絶望となった今、ヤンキースが田中に支払った155百万ドルは、高く無いと言えるだろう。ヤンキースは、ブライアン・ファルケンボーグに感謝すべきかもしれない。

「田中は僕に、大きすぎる名声を与えてくれたと思う」ファルケンボーグは強調した。「僕にとっては、僕が野手だったとして、特定のモデルのバットを使っていて、それを田中に見せたら彼が気に入って、彼がそれでたくさん打っているみたいなものだから」

「彼は、最初は僕の握りを学んだかも知れないけど、とっくにそれを超えているよ」

参考:nj.com