東京にいたティーンエージャーの時、互いに相容れない夢に直面していたマツザカの前には、違う方向を向いた2つの道があった。

一つの道では、その国で一番の高校生プロスペクトを 富と名声が待っていた。マツザカはまた、いつもオリンピックに行くことを夢見ていた。日本のスポーツ選手、そして文化を代表する国際的な舞台が、彼を手招きしていた。

しかし1992年のバルセロナ大会で野球が正式なオリンピック競技になって以来、選手はアマチュアでなくてはならなかった。マツザカは、プロ野球かオリンピックのどちらかを選ばなくてはならなかった。 

「だから、その決断をしなくてはならなかった時、色々な考えが僕の頭をよぎった。プロで頑張るのか、大学に行って、プロに行く前にオリンピックでプレーするのか」マツザカは通訳のジェフ・カトラーを通して言った。「だけどそれは、全部上手く行った」

彼はドラフトにかかることを選び、1998年に1巡目で西武ライオンズに指名された。その直後、国際野球連盟は2000年のシドニーオリンピックから、プロ選手の参加を認める決定をした。マツザカは自分の野球人生を進み、それを得ることができた。

「自分の国を代表する機会っていうのは、良くも悪くも、そのチャンスを与えられた人だけしかなれない」マツザカは言った。「そしてそれは、僕の人生にすごい影響を与えた」

マツザカとチームは大会の間、選手村ではなくそこから離れたホテルに滞在していた。彼は開幕式には参加できず、代わりにテレビで見ていた。それはそこに居たかったという、彼の気持ちを大きくするだけだった。

マツザカは27イニングを投げて7失点だったが、うち10イニングは延長13回でアメリカに負けた試合で投げたものだった。マツザカは韓国を相手に銅メダルを逃し、日本は4位に終わった。しかし彼はその試合で8回を投げて無失点、10奪三振と好投した。

そして彼は、日曜日に先発したヤンキースのヒロキ・クロダと共に、2004年に望みの物を手に入れた。1964年の東京オリンピックに砲丸投げの選手として出場した母を持つクロダは、アテネ大会の日本代表としてリリーフ登板して、オランダと台湾を破り2勝0敗だった。そして3位決定戦では、カナダを相手に3イニングを無失点に抑えた。

オーストラリアとの準決勝でマツザカは好投したが、得点のサポートが得られず1-0で敗戦した。

国際オリンピック委員会は2005年に、ロンドン・オリンピックから野球とソフトボールを外すと決定した。それはまた2016年のリオ・デ・ジャネイロ大会まで続く。2020年のオリンピックで空いている枠を埋めるための投票が、2013年の11月に行われる。

国際野球連盟とソフトボール連盟は、復活に向けて協調体勢を取っているが、MLBに選手の参加を認めさせるという難しい戦いに直面している。そして更に有りそうにないシナリオは、2013年から2年毎にワールド・ベースボール・クラシックを開催する計画の実現だ。

野球の復活を望むサポーターの中に、松坂も入っている。しかし復活は、単に投票を集めることよりも難しいかもしれない。 

「興味深い状況だね」ヤンキースの内野手ジェイソン・ニックスは言った。彼は2008年に、アメリカチームとして銅メダルを獲得している。「僕たちのベストプレーヤーが、そこでプレーするようになるとは思わない。一つの理由として、チームはシーズンで勝つために、選手たちに物凄いお金を投資しているから」

ニックスは北京大会で14打数3安打、3得点、1本の二塁打と1本塁打を打った。そしてアメリカが8-4で勝った日本との3位決定戦は、4打数1安打だった。しかしマツザカとクロダは、その時既にメジャーリーグの住人になっていた。

「それでも、とても厳しい戦いだった」ニックスは言った。「キューバ、韓国、日本、強いチームがたくさんいた。その点では、僕たちがベストプレーヤーを送らなかったとしても、僕たちは勝てると思っていたし、実際に勝つことができた」

「結局それは、チームが一丸になれるかってことで、そうするために頑張った国のチームは、充分に強かったと僕は思っている」

参考記事:Matsuzaka makes Olympics pitch By Alex Prewitt BOSTON.COM
http://www.boston.com/sports/baseball/redsox/articles/2012/07/30/matsuzaka_makes_olympics_pitch/