2005年5月3日、マーク・クルーンは二日間で2度目のセーブをするための準備をしていた。横浜ベイスターズのクローザーの仕事を、ファンに人気絶大だったカズヒロ・ササキから受け継ぎ、本拠地球場の観客の前に初めてお目見えするのだ。球場のアナウンサーは、彼の登場を興奮して紹介した。

「マウンド上は、マーク・クルーン!」

40,000人を超えるファンからの反応は?
 
静寂だった。

「彼らは”もしもし?”みたいな感じ」クルーンは思い出す。「野球をやってきて、一番無様なことだった」

不愉快ではあったが、クルーンはセーブをした。彼はまた、ベイスターズと読売ジャイアンツでの6年間で多くの価値ある時間を過ごした。

新たなスタートのメリットを享受するには、最初に彼らはよそ者であるという課題を克服しなければならない。 野球キャリアを海外に求めた数百人のアメリカ人にとって、それは当然の成り行きである。 

「僕は適応するために一生懸命戦う人たちが、上手くいくのを見てきた」 日本で4回のオールスター出場経験を持つオリオールズの左腕ツヨシ・ワダは言った。「それをしない人たち、自分がやりたいことだけをしていた人たちは、そうなることが出来なかった」

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クルーンは2004年に、コロラド・スプリングスでの試合後にアプローチを受けた。駐車場で彼に近づいてきた男は、クルーンの投球に注目していて、日本のプロ野球でプレーしないかと誘った。

その機会は、必ずしもそれほど直接的に来るとは限らない。

日本のチームは、3Aの試合とメジャーリーグの選手の動きに注目し、メジャーとマイナーを行き来している選手を探す。

ジャイアンツの投手ライアン・ボーグルソンは、3Aとメジャーの間を慌ただしく動いた2005年のシーズン後に、アプローチを受けたが断った。そして辛いシーズンだった2006年の後、オファーを受け入れた。

メジャーの移籍期間が始まる前が契約の期限だったので、彼は素早く決断しなければならなかった。いま読売ジャイアンツにいるかつてのフィリーズのリリーバー、スコット・マシソンも同じだった。

「僕は、メジャーリーグに戻るためのステップとして見ていない」マシソンは日本からのemailで言った。「僕の人生の新しい章だと思っている」

作家で日本野球のエキスパートであるロバート・ホワイティングは、彼らがマイナーリーグで得ている2倍くらいの給料と新たなスタートを探している間に、日本のチームは、自前の選手に足りないものの一つである”パワー”を提供できる”4Aクラス”の選手だと想定できるキャリアが下降気味のオールドスターと契約する方向に流れが変わってきていると言った。

それはかつてのメジャーリーグ先発投手、ブラッド・ペニーのケースだけではない。彼はこのシーズンオフにソフトバンクホークスと1年4百万ドルで契約した。ペニーはメジャーでの12年のキャリアのほとんどで成功を納めており、昨年はタイガースにいたが、日本でキャリアを続けることを選んだ。

「僕はあそこに留まって、プレーをすることも出来た」ペニーはホークスでの彼の入団会見で言った。「だけど僕はキャリアの中でこの様なチャンスをもらうのは、そう何度もないと思った。そして僕は今、そうしたほうが良いと思った」

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多くのアメリカ人と同じく、クルーンは最初グラウンド外のことに苦労した。彼は2週間で家に帰ろうと思った。日本食が食べられなかった彼は、そのとき体重を8ポンド落としていた。事実彼はそこでの6年間で1回もそれを食べなかった。

彼はライスを食べたが、工夫が必要だった。彼はビネガーをかけ、タルタルソースをかけて、味を足した。そこにはその国にいる多くのアメリカ人の駆け込み寺であるマクドナルドがあったが、そこに行くにはタクシーで15ドルもかかった。

「ビックマックに50ドルをかけるようなもので、僕はそれに疲れてしまった」クルーンは言った。「惨めだったよ」

クルーン、ボーグルソン、マシソンは、言葉が特に大問題にはならなかった。それは簡単ではないが、彼らはコミュニケーションの方法を見つけた。一方でコルビー・ルイスは、食料品店で指をさしながら何かを尋ねることをしていたかどうかに関係なく、それは”たぶん全ての中で最も過酷なこと”と言った。 

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しかし多くのアメリカ人の問題は、よそ者の”外人”であることで、それは食料品店だけのことではない。それらは、新しいチームとその球場にもあるのだ。

ボーゲルソンは、毎回2安打完封の投球が必要なような、高すぎる期待をされているように感じた。 なぜなら彼らは、彼に良い投球を期待して、お金を払って日本に連れてきているのだ。監督は一度ボーグルソンに、1失点でもしたら交代させると言った。

「彼らは、チームが少しでも良くなって、おそらくステップアップするために、僕たちを連れてきている。僕たちは助っ人なんだ」ボーグルソンは言った。「なんで僕がそんな事を言うかというと、彼らは僕に良い状態でいて欲しいんだけど、良くなりすぎて欲しくは無いんだ。僕には理解できなかった」

それは彼を精神的に強くしたが、彼がチームの勝利のために投げている間、自分のチームのメンバーと戦っているように感じたのは良いことではなかった。日本でプレーしていた他のアメリカ人も同じ事を感じた。ファンは彼らの自前の選手の成功を、むしろ見たがっていると言う。

しかし、おそらく日本にいたボーグルソンの最悪の時は、一軍選手としての立場を保証されていないと本当にわかった時だった。

初めてそれを伝えられた時には結局行かなかったが、2軍行きを回避することは出来なかった。それは頻繁にあることではない。4人の外国人が同時期に1軍にいることができるが、彼らは2軍に望むだけの選手を抱えておくことができる。

日本のファームシステムはアメリカのマイナーリーグシステムよりもかなり小さくて、それぞれのチームは傘下に一つのチームしかない。 それは控えめなアメリカ人には、特に使われないとホワイティングは言っているが、彼らをベンチに座らせるのではなく、試合で使い続ける。

「日本で、ガルフ・コースト・リーグの試合でプレーしているみたいだった」ボーグルソンは言った。「楽しくなかった」

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クルーンは、日本で2軍に行ったことがある数少ないアメリカ人の一人だ。彼はそれが日本での最も誇れる成果だと言った。彼は幸運だったと認めたが、やることもやった。

彼はササキから、できるだけ多くの知識を吸収した。何でも学んだので、彼は文化をリスペクトすることが出来た。ササキはクルーンを同じようにリスペクトし、後日載った新聞の記事によればクルーンはキャリアで最も気まずい時間だったと言った。

「ササキはいつも僕に、”クルーン、もし君がここの人たちに気に入られようと思うなら、一番早くグラウンド入りしなければならない”って言った」彼は言った。「もし君がここの人たちに愛されたいと思うなら、君はアメリカにいるのではないと理解しなければならない」

クルーンはグラウンドに最初に来ることで、最初の部分を実行した。

彼は162キロの日本最速を記録した。2008年にはセントラル・リーグのセーブ王になり、オールスターにも名を連ねた。2009年には優勝し、外国人セーブ数のトップになった。

彼はポップスターのマライア・キャリーの始球式の相手を務め、3Aのリリーバーなら会うチャンスが無かった他のアメリカの著名人にも数回会った。日本を離れることになった時、彼は日本文化にどっぷり浸かっている自分に気付いた。

「前に僕は、あそこで生活できる事が判った」クルーンは言った。「野球は違ったけど」

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日本でプレーしたアメリカ人は、いろいろな経験をする。成功、失敗、幸せ、不幸、親愛、孤独だ。

なので、もしキャリアを日本で過ごすことについて考えている若い選手がアドバイスを求めたら、彼らは心の底から何て言うのだろう?

「はっきりと言えるのは」クルーンは言った。「もし既にお金を稼いでいて、そこに行く理由がないのなら”僕はこれに対処する必要はない” ってなるだろうね。だけどもし君が飢えていて、もしまだアウトが取れると信じられるのなら、そしてお金が保証されるのなら、行くべきた。それは僕がしたことで、僕はそれをしてきた」

「もし稼ぎが良いという理由で、お金だけのためにプレーしに行くのなら成功しない」ボーグルソンは付け加えた。「もしより良いプレーがしたくて、そこでの経験を楽しみたいのなら、どんなに悪いことがあっても上手くやろうとするだろう。実際はそんなものだよ」

参考記事:Challenge of playing in Japan can be worthwhile By Adam Berry / MLB.com | 03/26/12 9:00 AM ET
http://seattle.mariners.mlb.com/news/article.jsp?ymd=20120324&content_id=27583782&vkey=news_sea&c_id=sea